鯨の声

 

「そろそろ出発しようか」

窓辺にの小さな椅子に座り、風景を見つめていた少年は、かけられた声にゆっくりと振り向いた。

少年の瞳は、曇天の迫る不穏な空の色を思わせた。

そこには確かに老齢の騎士の姿を映していたが、彼の表情はまったく動かない。

以前は反応が返ってこないことにいちいち心を痛めていたが、もう慣れてしまった。それでも何回かに一度は、叫びたくなるほどたまらなくなるときもある。

ジェマはそんな心の内を押し殺しつつ笑いかける。

「アイテムが心許ないから、道具屋に寄っていこう」

動こうとしない少年の肩を叩き、立つことを促す。

こちらの指示はわかるのか、少年はゆっくりと立ちあがりジェマの後について歩き出す。だが、そこに少年の意思は見られない。ただ惰性で歩いているだけだ。

ジェマは少年に気がつかれないようにそっと息を吐いた。

 

戦いのあと、ランディは聖剣の森の外れにある小屋に住みついた。

訪れる人もいないそこで作物を育て、必要があればポトス村に赴いて作物と他の食料品を交換してもらう。だが外出はそれくらいだった。

パンドーラからの騎士にならないかという誘いも断り、ポトス村の村長の戻ってこないかという勧めにも応じなかった。

ジェマがタスマニカで一緒に暮らさないか、と誘ったときも彼は首を横に振った。

その理由をランディに尋ねると、彼は薄く笑って言った。

「聖剣の近くにいると、父さんと母さんの近くにいられるような気がするんだ」

それ以上、ジェマは何も言えなかった。

 

タスマニカの騎士団を引退したジェマは、引継ぎなどいろいろと煩わしい仕事に追われていた。

だが、そこに突然手紙が舞い込んだ。ポトス村の村長からだった。

ランディと連絡がとれない。お忙しいのは百も承知だが、こちらに来てもらうことはできないか。

それを読んだ途端、ジェマは仕事を投げだし、ポトス村に向かった。

ポトス村の村長は、ここのところランディが姿を見せないのだ、と疲労感をにじませて言った。

「私たちが自分から出向けばいいのだが、どうも聖剣の森の様子がおかしくて、奥まで入れないのです」

ジェマは任せてください、と言って装備を調えると、聖剣の森に向かった。

森の中は昼だというのに濃い霧がかかっていた。モンスターはいないようだが、幾多の戦場をくぐりぬけてきたジェマでも、とてつもなく不気味なものを感じる雰囲気だった。

――いい大人が、何をびくついているんだ。

ジェマはそう自分に言い聞かせながら歩を進める。

一歩一歩踏み出すたび、胃の腑が重くなっていくような気さえする。ジェマを突き動かすのはランディの無事を確かめたいというただその気持ちだけだった。

ランディの家への道を進んでいこうとするが、霧で方向感覚が奪われる。これでは、旅慣れていないポトス村の人々では無理だっただろう。

ほとんど勘に頼ったようなものだったが、ランディの家にたどりついたときにはほっとした。だが、こんな森の中、無事かどうかが気になる。

「……ランディ?」

そっと開けた木戸から呼びかけるが、返事はない。

中に入り込むと、居間に倒れている人影が見えて、慌てて駆け寄る。

「ランディ!おい!」

それはやはりランディで、ジェマが必死に揺さぶるとうっすらと目を開いた。そのことにほっとしたのもつかの間、目の焦点が合っていない。どこを見ているのかわからない瞳にジェマはぞっとした。

さらにジェマが台所やベッドに目を走らせると、もうずいぶん長いこと使われた形跡がない。

何がどうなっているのかわからなかったが、とりあえずここから治療のできるところに運ぶことが火急だろう。

ジェマはランディを担ぐと、もと来た道を引き返した。

 

「先の戦いで、殺されたり倒されたりした者の怨念が、聖剣の森に集まってしまったようなのだ」

水の神殿の神官、ルカはそう語った。

もとから聖剣の森に聖剣が納められたのは、そういった念が集まりやすく、人が入りにくい場所であったということが理由だったらしい。

それでも今の状況はあまりにも異常だという。

以前は背筋がぞっとするくらいのものだったのが、今では森の中にいるだけで気分が悪くなってくるほどになっている。

「やはり、森の中に聖剣と、聖剣の勇者がそろっていたということからより念が集まりやすくなってしまったのだろう」

ルカが顔をしかめる。気がつけなかったことに悔しさをにじませているようだった。

ジェマが「ランディは……」とつぶやくと、ルカは首を振った。

保護されたランディは命に別状はなかった。食事も促せばとるし、こちらの言っていることも多少はわかるようだ。

だが、その表情がまったく動かない。医者は感情や思考が麻痺してしまっているようだ、と言った。

「長い時間瘴気にあてられたせいだろうな。水の神殿の清い水や空気の中にいればどうか、と思ったが、今のところ何の変化もない。どうすればよいのか……」

長い時を生きてきたルカでもお手上げであれば、どうすればいいのか。ジェマは途方にくれた。

 

面会に訪れたプリムは、涙をためてランディを見た。

「ランディ。嫌よ、あの情けない笑顔でいいから、笑ってよ……」

椅子に座ったまま、目線をさまよわせるだけでプリムのほうを見もしないランディに、プリムは衝撃を受けて泣き出してしまった。

ランディの両手を包むように握り、プリムは涙をこぼした。ジェマは自分の無力をかみしめながら、何も声をかけることができなかった。

何が、タスマニカ共和国の騎士だ。

成り行きとはいえ少年に剣を持たせ、聖剣の勇者という使命を背負わせてさんざんに傷つけた挙げ句、感情を失わせるような目に遭わせてしまった。

しかも、そのことに為すすべも持ち合わせていない。

いたずらに年を重ねただけ、自分はなんと無力なのか。

ジェマがぎり、と自分の拳を握ったときに、プリムがぱっと顔をあげた。

「ランディ」

プリムが驚いたように名前を呼び、ジェマが目を見張る。

プリムが包み込んだランディの手が、弱々しい力ながら、プリムの手を握り返そうとしていた。

「ランディ、わかる?私だよ、ねえ、戻ってきて!」

プリムが必死で呼びかけるが、それ以上の反応は見られない。

けれど、今まで本当に無反応だったことからすると、大きな違いと言えた。

そうだ、私があきらめてどうするんだ。

ジェマはさっきとは違う意味で、拳を握りしめた。

 

外界からの刺激があれば、元に戻るのかもしれない。

仮説でしかなかったが、ルカとジェマはそれにすがることにした。

プリムのときのように、いろいろな人間に会い、刺激を受ければ変わっていくかもしれない。

ランディの知り合いたちに水の神殿に出向いてもらうのは負担が大きい。

また、人に会うだけでなく、各地の風景や生活に触れることも良い刺激になるだろう。

そう考えたジェマは、ランディを連れて旅に出ることにした。

プリムも付いていきたい、と申し出てくれたが、ジェマはやんわりと断った。

プリムは今、パンドーラ国で要職についている。今が力を認められていく大事な時期であろうことは察せられた。

また、ランディの世話をしながら旅をすることになるので、男同士の自分だけのほうがいいとジェマは思った。

ランディが元に戻ったときに、プリムに迷惑をかけたことを気に病むような気もしたのだ。

プリムも薄々それに気がついていたのか、結局は引き下がった。

「たまに、近くまで来たらパンドーラに寄ってね」

プリムがランディの出発前に、水の神殿を訪れてそっとランディに言った。

彼女が手を握っても、ランディが反応を返したのは結局最初の一度きりで、ただぼうっとプリムを見つめるのみだ。

それでもランディとプリムの間には、以前から続くつながりがあるのは見て取れた。

手を取り、佇む二人は、絵画を見ているかのように美しかった。

けれど、ジェマがもう一度見たいと思うのは、二人の年相応に笑う屈託ない笑顔だった。ポポイがいたときにはいつでも見られていたのに、と思う。

このままでは終わらせない。

そうして、ジェマとランディの、終わりの見えない旅が始まったのだ。

 

四季の森では、急に表情を変える森に少し目を白黒させていた。

マンダ―ラ山ではかなり体力が落ちていたためか、頂上まで登る前に何度も休まなければならなかった。

サンタクロースの家を訪ねたときには、トナカイがひくそりに乗せてもらい、雪の冷たさに手を引っ込めていた。

ジェマはまるで父親のようにランディと旅をしている気がした。

だが、相変わらずこちらの呼びかけに応えることも、感情の揺らぎを感じることもなかった。

ニキータが「早く戻ってこないと金をとりますにゃ」と脅しても、クリスが弟を案じるように頭を撫でても、何も変わらなかった。

たいていの人には会わせたが、目に見える変化はない。半年以上旅をしても何も変わらず、ジェマは少し焦りを感じ始めていた。

そんなとき、一通の手紙が舞い込んだ。

 

「よお、ランディ。俺のこと覚えてるか」

浅黒い肌をした、体格のいい男がランディに目線をあわせて尋ねる。

港の潮のにおいがする風になぶられるままに、ランディはただ立っているだけだ。

セルゲイはランディの顔の前で手を振ったが、相変わらず反応はない。

行き場のなくなった手を後頭部に持っていき、がしがしとかく。

「だよなあ。プリム嬢でも無理だってのに、俺に会ってなんか変化あるとは思わなかったけど、やっぱりショックだな」

「いいや、積み重ねが大事なんだ。ありがとう」

ジェマはセルゲイを慰めながらも、落胆は隠せなかった。礼をいいながらも、その声は力弱く響いてしまう。

懐かしい顔に再会しても、ランディは相変わらず何の反応も返さない。

ひとつひとつの可能性を試すうちに、ひとつひとつ可能性をつぶしていっているような気もした。

「俺よりも、本命はこっちだよな。さあ、乗った乗った。ジェマとランディは船に乗るのは初めてか?」

「いや、私はタスマニカの騎士団で使っていたからな。酔いにも慣れているから平気だ。ランディは初めてだが」

「じゃあ、よけいいい刺激になるな!海は広いぞ、ランディ!」

セルゲイはまるで前と変わらないように、ランディの背中をばんばんと叩いた。ランディはされるがままになっている。

今日は、セルゲイの船に乗せてもらうことになっていた。

マナを巡る戦いの頃、マナの減少の余波を受け、海は不安定に荒れるようになり船は出せなくなった。

セルゲイは元は海賊として不正を働いて私腹を肥やす金持ちの船を襲っていた。だが船に乗れなくなり、少しでも船乗りの気分を味わうためにサンドシップに乗っていたところで、ランディたちと出会ったらしい。

戦いも終わり、マナもなくなり、海も元に戻った今では、タスマニカの国有船の管理を一手に任されている。

ランディに海を見せよう。

ランディの現状を書いた手紙を送ったところ、セルゲイからそのように返事が来たのだ。

以前の戦いでは船は使えなかったから、もっぱら移動はフラミーに頼っていた。そのため、ランディは海を知らない。

いい刺激になってほしい。

セルゲイにぐいぐいと背中を押されて甲板に連れていかれるランディを見ながら、ジェマは祈るように思う。

 

「やっとランディを俺の船に乗せられる機会が訪れたと思ったら、こんな状況だとはな」

セルゲイが苦い顔をしながら言った。

彼はランディとは親子ほどではないが歳が離れている。年若い者の不憫な姿を見て、少し感じるところがあったらしい。酒を一気に煽った。

港を出向してすぐに、初めての船酔いにランディは吐いてしまった。薬を飲ませてベッドに休ませると、すぐに眠ってしまった。

景色を見せたかったのがそうもいかず、夜になり、ジェマとセルゲイは船長室で食事を取っていた。

まずそうに酒を飲み下したセルゲイが尋ねる。

「旅を初めてから、何か変わった反応をしたことはなかったのか?」

ジェマは顔をしかめた。

「……変化らしい変化は、ないな」

「そうか」

「だからといって、あきらめるわけにもいかん」

ジェマは自分の言葉が、自分に言い聞かせているようでさらに顔をしかめた。

「プリムを初めとして、旅で親しくなった人間には何度も会わせている。旅で行ったところや、行っていないところにも行った。手は尽くしていると思うんだが……」

何かが足りないのだろう。

だが、その何かがわからない。

もしかしたらずっとこのままなのかもしれない。

普段は考えないようにしている後ろ向きな思考が襲ってきてジェマは身震いをした。

セルゲイはふむ、と考えこむと言った。

「でもよお、森の様子がおかしかったなら、ランディはなんで森から出ようとしなかったんだろうな」

「え?」

ジェマはセルゲイが何を疑問に思っているのかがわからず、声をあげた。

「なんかおかしいな、と思ったら周りに助けを求めるだろう、普通」

「それはそうだが。気がついたときには、もう手遅れだったんじゃないか」

ジェマはそういいながらも、何かが引っかかった。

自分やルカは、ランディがどういう性格かよくわかっている。

ランディは周りに迷惑をかけることを嫌う。幼少期に村でよそ者扱いされて育ったからか、何でもひとりでやろうとするところがあった。

だから疑問に思わなかった。

だが、さすがに自分の変調には気がついていただろうに、どうしてそのままにしておいたのだろうか。

ジェマのつついていた夕食は、すっかり冷めてしまった。

 

眠れずに、ジェマは星空の下の甲板に立ち、風に吹かれていた。

真夏とはいえ、夜は少し冷える。

ぶるりと震えながらも頭が冴えているので気にならなかった。

ふいに、かたん、という音がした。ジェマが振り向くと、そこにはランディがぼうっと突っ立っていた。

おかしな時間に寝たからだろう。目が覚めてしまい、どうしたらいいのかとうろうろとしていたのかもしれない。まるで幼子のようだ。

ジェマは苦笑うすると、静かに近づき、ランディの手を引く。「おいで」と言うと、彼はおとなしく従った。

甲板に腕をつき、しばらく二人で風にあたる。

ランディは揺れにもようやく慣れたらしく、ただ夜の海を見つめていた。

「なあ、ランディ。今から私は独り言を言うよ」

ジェマの声にも当然、ランディは反応しない。

今はそれが心底ありがたかった。

「何も疑問に思っていなかった私が馬鹿だった。セルゲイに言われてようやく疑問に思ったよ。なぜ、お前が助けを求めなかったのか。いや……そもそもなぜ、聖剣の森に一人で住んでいたのか。なぜ、今も元に戻ることがないのか」

波の音だけが二人の間に響く。

けれど、ジェマには何も耳に入らなかった。ぼそぼそとつぶやく自分の声以外は、とてつもなく静かに感じられた。

「私たちがいくら呼びかけても、戻ってこいと言っても。本人にその気がなければ戻ってこないよなあ」

ジェマは自分で言った言葉に衝撃を受ける。

ちらりとランディを見るが、特に変わった様子は見られない。

ジェマは大きなため息をついた。

「ランディ。お前は、何かがおかしいと思っても、助かろうという気が起きないくらいには、もうどうでもよくなってしまったんだな」

ランディはあの家に一人で何を考えていたのだろうか。

毎日自分の罪のかたちである聖剣を前にして、何を思ったのだろうか。

聖剣の森の様子が変わって、無気力になり、無感動になっていき、それでも受け入れてしまうくらい、現実の世界に絶望してしまったのだろうか。

自分や、ルカや、プリムのことも、もう心の中にはよぎらないほど、絶望してしまったのだろうか。

空が白み始める。少しずつ、太陽が昇り始めたようだ。けれど、ランディはただ立っているだけだ。

「それでも」

ジェマはランディの肩をつかんだ。ガラス玉のような瞳がこちらを見ている。

「私に付いてきたのはどうしてだ、ランディ。戻ってこない気なら、私のことなど無視していればいいはずだ。座り込んで、ずっと動かなければいい。お前は私の言うことを聞いてくれた。それは、お前も、本当は戻ってきたいと思っているからじゃないのか」

ランディはただジェマを見つめ返すだけだ。それがもどかしくて、ジェマは首を振る。

「なあ、ランディ」

ジェマはランディの肩を強く揺さぶった。だが、どんなに身体を揺らしても、彼は何の反応も示さない。

「よく見ろ。お前が救った世界だ。太陽が昇り、海が輝くのは、お前が救ったからだろう。鳥が鳴き、魚が泳いでいるは、お前たちが必死に戦ったからだろう!この世界を、お前が見なくてどうするんだ!」

太陽が地平線から登り始めた。真っ直ぐに光がこちらまで届く。光が反射して海面が輝き出した。

黒く、生き物を呑み込みそうだった海面は、いつのまにか陽光に照らされて金色に波打っていた。

「戻ってこい!ランディ!」

ジェマの大きな声に、ランディがびくりと肩をすくませる。

そうして、そろそろと視界に広がる海に顔を向けた。

徐々に朝が訪れ始める。波が光を反射して、ランディの瞳が眩しそうに細められた。

そのとき、大きな獣の声がした。

ジェマも思わずあたりを見渡してしまう。

波が一気に押し上げられ、黒い巨体が姿を現す。それは大きな水しぶきをあげると、再び、海中へ沈んでいく。

「……ああ、鯨の声だ」

ジェマはつぶやいたあと、ランディの顔を見てぎょっとした。

彼の頬に一筋、涙が伝っていた。

「ランディ」

ジェマは呆然として名前を呼んだ。

ランディは動かない。やはり、またただ立っているだけだ。

まだ時間はかかるかもしれない。

けれど、必ず、いつかは戻ってきてくれるのだろう。

ジェマはようやくそう確信できて、自分も涙がこぼれていることに気がつくことに時間がかかった。

 

 

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2012.9.12

 

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