浄液

 

 

 

 

 

 せっかく帰ってきたんだから、またすぐ留守にすることはないよ。しばらくは、お父さんと一緒に過ごしたほうがいい。ルカ様には、僕から挨拶しておくから。

 

 

 自分がプリムに言った言葉が、建前だと、わかっていた。

 

 

 

 

 

 神獣を倒したあと、要塞は消滅し、雪山に投げ出されたランディとプリムは、ジェマと彼が引き連れた共和国の部下たちに発見された。

 

 一か月ほどの療養期間を経て、二人は今まで旅してきた世界中の場所を回った。

 

そして今、パンドーラ王国でプリムと別れ、ランディは一人で水の神殿に向かっている。

 

急に視界が開けた。

 

 森の薄暗さに慣れた目が、眩しさに順応するのを待つ。

 

 そこには、水の神殿が以前と変わらずにあった。荘厳な建築物の周りに張った限りなく透き通った水は、日の光を照り返して、神殿をさらにきらびやかに輝かせている。

 

 ランディの胸はいっぱいになった。見慣れていたが、ずいぶんと久しぶりのような気がする。一歩一歩噛みしめるように進んで、扉にそっと手をかける。

 

――最後にここに来たときは、三人だった。

 

 ふと思い、後ろを振り向いてみた。誰もいない。自分一人。

 

 ランディは自嘲気味に笑おうとしたが、顔が引きつっただけだった。改めて、扉に力を込めて開く。中に入ると、重い響きを持って扉が閉まった。初めてここに来たは、この音に、もう戻れないのでは、と不安を抱いたことを思い出す。

 

 ――あながち、間違いではなかったんだ。あのときから、僕はもう戻れなかった。ここに、今、こうやって戻ってくるところまで、進むしか道は残されていなかった。

 

 自分の足音が、耳に痛いほど突き刺さる。

 

 

 お父さんとの時間を大切にしてほしいんだ。僕にはもうできないことだから。

 

 

 パンドーラを旅発つとき、私もルカ様に会いに行く、と言ったプリムをなだめた自分の声がよみがえる。

 

 僕は卑怯だ。プリムがそれ以上、何も言えなくなるようなことを言った。

 

 そうまでして、自分はルカ様に一人で会いたかったのだ。

 

 ランディは、ここに来るまで気づかないようにしていた自分の気持ちを自覚した。

 

 足を止め、最後の扉を開く。あふれてきた光の中に、水の神殿の神官、ルサ・ルカが立っていた。

 

 ゆったりとした白い服に身を包み、青い髪をまっすぐにおろした、童顔の少女。ランディは、彼女の小柄な体に、二百年の時が流れたことを、いまだに信じられなかった。

 

 「……ランディ」

 

 旅の途上、遠く離れた地にいた自分たちを、ときに慰め、ときに励まし、ときに導いてくれた、深い泉の底から聞こえてくるような、澄み切った声。

 

 ランディはルカの目の前に立った。彼女の顔を見るのは本当に久しぶりだった。反対に、彼女は自分たちの姿をずっと見ていてくれたわけだが。

 

 最後にここに来たときよりも、ランディはかなり背が伸びたため、ルカはほとんど見上げるようにしている。

 

 彼女の赤い瞳の中に自分の姿が映る。

 

 背が伸び、年齢よりも幼く見られたことのほうが多かった顔も、少し大人びたけれども、今、彼女の瞳の中の自分は、小さな子どものように頼りなかった。

 

 「ルカ様」

 

 かすれた声が出た。込み上げてくるものをこらえて、声を絞り出す。

 

 「――……帰って、きました」

 

 「うむ」

 

 

 必ず帰って来い。

 

 

 要塞に乗り込む前に言われた言葉は、はっきり覚えている。

 

 もしかしたら、果たせないかもしれない、とそのとき思った。

 

 「おかえり、ランディ。そなたはよくやった」

 

 ルカは幼さの残る顔に似合わない、老獪さを顔ににじませ、言った。

 

 だが、ランディはその言葉にゆるやかに首を振る。

 

 「僕は……何も、救えませんでした」

 

 うつむき、拳を握り締める。

 

 「ルカ様は、きっと、知っていたんですね。こうなることを」

 

 ランディは、初めてここに来たときのことを思い出していた。

 

 あのとき、ルカは、ランディを見るなり顔をしかめたのだ。

 

 「幸福な終わりが来ないことを……知っていたんですね」

 

 ランディは、それを、自分のようなものが聖剣を抜いたことに対する苛立ちだと解釈した。

 

 しかし、それは違ったのだろう。

 

 「……そうじゃな」

 

 ルカが静かに言う。

 

 「わしは、巫女のような力も持っておる。そのせいか……先読みのような能力が働くときもある。そなたに初めて会ったときに、漠然と感じたのだ。そなたの歩む、苦難の道を。そなたが対面する、残酷な結末を……」

 

 ルカの腕が、ランディの首に回される。

 

 「だが、そなたがよくやったことには変わりない。……もう、いいぞ」

 

 ランディがびくりと肩を震わせる。

 

 震えは止まらず、それは全身に伝わっていく。

 

 「もう……泣いてもいいぞ」

 

 ランディがずる、と膝を折った。ルカの肩にその両の拳がすがりつく。そして、血がにじみ出そうなほど、固く固く握られた。

 

 初めは低く、小さかった嗚咽が、だんだん爆発するように大きくなる。

 

 ルカは回した腕の力を強くして、黙って目をつむった。

 

 

 ルカの耳に、幼子の悲鳴のような泣き声が、長いこと響き続けた。

 

 

 

text / 呪い

 

 

ランディがルカ様に一人で会いに行ったことを深読みしているのは、私だけじゃないと思う。

 

2009.2.17

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