「あれ」
ランディが声をあげた。「どうしました」とアリスが聞いても、顔をしかめたまま、口元に手をやり考え続けている。
アリスは彼の手元にある新聞を見つめた。昨日、セルゲイが船で運んできた今回の物資の中に入っていたものだ。彼はいつも通り豪快な笑い声を島に響かせて去って行った。何も変わらない様子でいてくれるのがありがたい。
新聞をもっと詳しく見ようと視線を下げると、伸びた髪が垂れて視界を塞いだため、アリスはその房を背後へと払った。
この島へと出向いた頃には肩までの長さだった彼女の髪は、いつの間にか腰へと届こうとしていた。ランディに僕が切ろうか、と提案されたこともある。アリスにとっては魅力的な申し出ではあったが、今のところ伸ばし続けるつもりだった。そろそろプリムと同じくらいの長さになるね、と言われ、詮無いことと思いつつもばれないようにそっとため息をついたこともある。
何か気になる記事でもあったのだろうかと彼の様子に目をこらすと、ふと気づく。
「……色が、違う?」
「やっぱり、アリスもそう思う?」
新聞紙の一面、一番上に折りたたまれている紙が、はさまれている他の紙とは異なる少々濃い色合いをしている。日に焼けた黄ばんだ色ともまた違う。
念のため、他の日付の新聞を持ってきて見比べてみると、どうやら中の紙のほうの色が本来であると判明する。
色が濃い新聞はタスマニカ王のパンドーラへの視察の様子や、今年の作物の収穫具合など、ごくごく普通のニュースが文字を連ねている。
「一番上だけ別の紙に刷った……ということでしょうか」
でもいったい、何のために?とランディとアリスは顔を見合わせた。何か手がかりはないかと、新聞の他の記事を粒さに読んでいく。
「あっ」
アリスは思わず声をあげ、ランディにある記事を指し示した。
――さる国の大臣の令嬢が家出した、などと世間では話題だが、いつの世も若い娘と父親の関係とは難儀なものである。
そんな書き出しから始めるのは、記者が書くちょっとしたコラムで、内容自体は自身の体験と世情を絡めた毒にも薬にもならないものだ。だが、二人にとっては冒頭のその記述こそが意味を持っていた。
「これ、プリム様のことですよね。きっとこの日の一面はこのことについて書かれていたんでしょう」
「僕に知られたくないけど、一日だけ新聞がないのも不自然だろうと差し替えたものを用意した。けれど、紙の種類が違ったり、他の記事の中身を確認しなかったことはお粗末としか言いようがないけれど」
ランディの唇が皮肉気に上がった。アリスが胸にあてた手を握り、俯く。
「プリム様、一体何があったんでしょう」
「本当に家出なら、そこまで心配はないと思うんだけどね。以前の旅の始まりも家出だったわけだし、またかって気もするんだけど……」
ランディはぼそぼそと呟いた。プリムがランディの仲間になったのは、父親に恋人との仲を引き裂かれそうになったためという経緯がある。ランディは腕組みをして唸る。
「エルマン大臣は仮にも大臣だし、私情を挟んだわけではなかったと思うんだよ。帝国の騎士団の中に、ディラックさんほどの腕前の人がいなかったからじゃないかって……以前は聞く耳持たなかったんだろうけど、旅が終わった頃にはもう、プリムも理解してたと思うんだよね」
だから家出なんて今更するとは思えない。
ランディのきっぱりとした言葉に、アリスはそうですか、とただ頷く。
ふたりの間には、私が入り込めないものがある。
そう、アリスは感じていた。おそらくはそれは、アリス以外の人間でもそうだろう。
同じ日々を過ごし、同じ喪失を味わった、ただふたり残された者にしか共有できないものがあるのだ。
「……プリム」
ランディが窓の外へと目をやった。アリスがその横顔を見つめていることにも気づかない。
春の長い雨が続くこの島では、ぶ厚い雲があたりを覆っていて、太陽の光は届かずひたすらに薄暗い。
ポボス
窓の外は音もなく雪が降っていた。
「パメラ、本当に行っちゃうのね」
プリムの声にほんの少し、寂しさが乗っていることに気が付いたのだろう。パメラは「あら」とくすりと笑った。
見慣れたパメラの部屋は、花柄のベッドカバーや、かわいらしい動物の置物があり少女らしく、彼女のイメージにぴったりだ。
だが、床には大きな荷物が梱包されて異彩を放っていて、さらにパメラ自身、たれ目がちだった目のメイクか若干鋭いものに変わり、おろしていた髪もひとつにまとめられてポニーテールになっていた。服装も色合いが白と紺と地味だ。壁にかかった冬用のコートは、旅立ちのために新調したもので、深いネズミ色だ。
パメラが帝国ノースタウンとの和平使節として派遣される。
そう決定が下ったのは一か月前のことだ。国の要請を受け、それを承諾したらしい。 直接敵対していたタスマニカと帝国はまだ和平には至っておらず、まずはパンドーラから帝国と和平を結ぶことが世界の平和に一歩近づく道である、その手伝いをしてほしい、との要請だったという。 操られていたとはいえ、人々の生気を集めていたのは事実だから、贖罪になることがしたい。今日、任命式が行われ、そう王の前で宣誓した様子をプリムも見守った。
だが、パメラは後でこっそりとプリムにだけ囁いた。
「もちろん、帝国の人たちへの償いは本当の気持ちよ。でも、ねらいは別にあるの。私が有名になることで、タナトスに操られていたことを広めていけばディラックの行いの誤解が解けるでしょう。ディラックの汚名を灌ぎたいの」
ディラックが操られていたことはパンドーラの地方では周知の事実だが、その他の事情をよく知らない世界中の民衆にはタナトスの部下だったと思っている者も多い。
パメラのディラックへの満たされなかった思いは、かたちを変えて昇華されていくのだろう。 プリムは強くしなやかになった親友の存在が誇らしく、しかしどこか置いて行かれてしまうという気持ちを拭えない。
いつも迷いなく自分の決めた道を進んできたが、今の自分の状況は八方塞がりの感が否めなかった。そんな中で、幼馴染で親友のパメラがパンドーラからいなくなるのは寂しいし、さらに言ってしまえば心細い。プリムはため息をついた。
それは今の自分に何の自信も持てないからだと自分でもわかっていた。基本的には実家にいて、たまにランディの様子を見に島へと出向き、他の国の動向を探る。ランディを解放する手立てがないものか、かつての仲間たちへの情報収集や協力依頼、新たなる人脈への働きかけ。いろいろと動き回ってはいるが、正直に言えばあまりうまくいっていない。
私は一体、何をしているんだろう。ランディを助ける目途も全く立てられないで。
ずぶずぶと沈み込んでいく気分を止めたのは、そっと肩に手を置いたパメラの温もりだった。
「帝国へ行ったらしばらくは戻れないけれど、今生の別れというわけでもないわ。向こうの情勢、できる限り探ってくるから」
「うん……」
プリムは現在、出入国をチェックされている。一応、本人にはわからないようにやっているつもりらしいが、ディラックのかつての部下が教えてくれたのだ。
プリムが下手に動けばランディを閉じ込めている者たちに恰好のネタを提供するようなものだ。帝国に侵入することは可能だろうが、とんでもない手間と労力を必要とするだろう。パメラが一旦帝国へ赴いてしまえば、会いにいくのは得策ではない。
プリムが浮かない表情を振り払うように首を左右に振った。
「それで、パメラ。見てほしいものって何?」
プリムが振り返って促す。パメラから見せたいものがあると伝えられたが、もうパンドーラの国の中でも、うかつな店でおしゃべりをすることもできない。どこで誰が聞いているかわからないし、たいした話でなくてもどんな憶測を立てられるか、言いがかりをつけられるかもわからないからだ。結果、どちらかの家が一番安全だった。
パメラがひとつ頷き、封筒から分厚い書類を取り出した。
「これよ」
プリムは目を見開く。書類には帝国とパンドーラの名前と、様々な条件や数字が並んでいる。
「もしかして、和平の交渉条件? いいの、私に見せても」
「よくはないわね。でも、見せなきゃ話にならないから」
パメラが苦笑し、プリムも同じ表情を返す。パメラは先入観を与えたくないのか口をつぐんでしまったので、プリムはじっくりと書類をめくり始めた。やがて、プリムは顔をあげた。
「ねえこれ、農産物の関税……随分ふっかけすぎじゃない?」
パメラが大きく息をつき、ほっとしたように絞り出す。
「やっぱりそうなのね。私、数字に弱くて……なんか変だな、としか思えなくて。ねえ、具体的に説明できる? 私、使節として派遣されるのにこちらが提示する条件もよくわかってないなんてごめんだわ」
パメラが悔しそうに唇を噛む。
「そりゃあ、私はお飾りで実際に交渉するのは同行する役人よ。私に求められているのはタナトスに操られたことを悔いて謝罪の意思を示している貴族の令嬢って人物像なんだってことくらいわかってる。でも、私だって思惑があってお飾りになるんだもの、無責任ではいられないわ」
パメラの瞳が強い意思で輝いているのを見て、プリムは背筋を伸ばした。 この親友が変わったのは、外見だけではない。これが彼女の前への進み方なのだ。そうであれば私も、私の持っている全てで協力しなければ嘘になる。プリムは息を吐き出した。
「……明日まで時間をもらっていい? 正確なところがわからないのよ。他の国でパンドーラの作物にかけられている関税と比較できるように、ニキータに尋ねてみるわ」
「ありがとう、プリム!」
さすがに書類自体を持ち出すわけにはいかないので、プリムはさっと数字をメモし立ち上がる。日が昇らないうちにニキータに会いに行き、帰ってくれば衛兵にばれないだろう。
パメラが気をつけてね、と彼女の手を握った。しっぽのように揺れた髪の毛を見て、プリムは微笑んだ。
「新しい髪型もすごく似合っているわ、パメラ。私はあなたと友達であることを誇りに思う」
プリムはそう心から告げた。
帝国遺跡でパメラの裏切りと、彼女の本当の心を知ったときから、プリムは何度も自問自答していた。
どうして私は、パメラの気持ちに気付くことができなかったんだろう。パメラは私とディラックを見てどんな気持ちだったんだろう。何も知らずにディラックの話をする私を、どれだけ憎んでいたんだろう――。
繰り返し考えて、推測にすぎなくてもその辛さや苦しさは十分理解できた。何より好きになった人が同じだったから、彼が自分ではなくパメラのほうを向いていたら、それを笑ってみていなければいけないとしたらと考えるとさらに胸がつぶれそうだった。
けれど、パメラはそれらを乗り越えて、再びプリムに微笑んだ。そして、自分にしかできないことを探し出したのだ。
パメラは雲間から光が射すように微笑んだ。
「髪型ね、実を言うとプリムの真似をしたの」
え、という音がプリムの唇から洩れた。
「少し前の私なら絶対やらなかったわ。だって、私はプリムになりたくて仕方なかったんだもの。いつも明るくて、強くて、輝いているプリムに。ディラックに愛されるあなたに。でも同時にそんな自分がイヤでイヤでどうしようもなくて、だから、あなたの真似なんて絶対したくなかった。できなかった」
「パメラ……」
プリムの吐息のような呼びかけに、パメラが大好きよプリム、と微笑む。
「私はプリムにはなれなかった。でも、プリムになれなくても、私は私。生きていれば、きっとまた誰かを愛することもできるわ。私は私でいいって、ようやく思えるようになったのよ。私はようやくちゃんとパメラになって、だからあなたと同じ髪型にだってできるの」
本当は少しだけ、帝国に行くのが恐いの。だから、おそろいの髪型で勇気をちょうだい。
震える涙声でささやいたパメラを、プリムは思い切り抱きしめた。
「聖剣とマナを巡る戦いで、帝国は兵士に男手をとられていたから、農村部の収穫へのダメージが大きかったニャ。作物が不足しがちだから、パンドーラの農産物は是が非でも手に入れたいだろうけど、この関税は確かに足元見すぎニャ」
「やっぱりそうよねえ」
真夜中に叩き起こすことになるのを覚悟でニキータの家に駆けこんだプリムだったが、ニキータは起きていた。ネコらしく基本的には夜行性らしい。金になりそうな話があれば、二十四時間営業中ニャ、とにやりと笑うのも忘れない。
ニキータは興味深そうにプリムのメモを受け取ると、試す眇めず舐めるように見て目を細め、爪で数字を叩いた。
「でも、こっちのほうも気になるニャ。パンドーラが求める鉱物資源の輸入の量」
「え、そうなの? 帝国は農作物をたくさん輸入する分、輸出もしなければ不公平でしょう? むしろバランスとれているようにも見えるけど」
「帝国は戦いで城が焼けているニャ。再建するのにも資源が必要なのにこんなに鉱物を輸出してしまったら自国に回す分がなくなるニャ」
ニキータはひげをなでながら、つまり、一見平等な取引に見せかけて、帝国の経済力だけでなく、軍事力も削る条件になっている、と指摘した。
「……ずいぶん強気な条件ニャ。和平といいつつ、どうも上からな気がするニャー。そりゃあ、タナトスが聖剣の勇者が倒したことを『帝国が負けた』と見る向きもあるけどニャ、帝国は、あれはタナトス個人と勇者個人の戦いだったという立場でいるニャ。皇帝の殺害については内乱と見られているし、今実質的に帝国を率いているのはクリスたちレジスタンスニャのに……」
ここまでこちらに有利な条件を提示するなら、きっとパンドーラには何か手札があるのニャ。帝国が文句をのみこむしかないくらいの手札がニャ。
プリムはニキータに礼を言うと再び国へ戻ったが、森を歩きながらも、最後にきっぱり言い切ったニキータの言葉が何度も頭によぎった。
パメラにニキータの話を伝え、人目につかない裏路地を通って自宅へ戻る。雪が降りしきる道はつけた足跡もすぐに消してくれた。 裏口から家に入り、自室へ戻ろうとしたが、その途中で父の部屋の灯りが点いていることに気付く。
「……パパ。まだ起きてたの?」
「プリムか」
エルマンが書類から顔をあげた。帝国との和平交渉や、それによるタスマニカとの関係調整で大臣の仕事はふくれあがるばかりだ。その顔には疲労が見え、目尻の皺に父親の年齢を感じてしまう。
プリムが何をしていても、エルマンは以前とは違い何も言わなくなっていた。プリムもディラックを魔女の森へ送ったことを責めることは二度となかった。 きちんと話し合ったわけではないが、お互いが自分の信念を貫いた結果が今であることを、どちらもが受け入れたのだとプリムは考えている。
だがなんとなくよそよそしさが残っていて、結局会話量は旅の前も後も変わらないほどだ。
ふと、プリムはエルマンに相談してみよう、という気持ちになった。
パメラは自分にはわからないから、とプリムに相談をしてきた。プライドの高いプリムがパメラの立場だったら、同じことができたかどうかは怪しい。パメラと同じく、自分の親友を見習ってみようと思ったのだ。
「パパ、疲れているところ悪いのだけど……ちょっと見てほしいものがあるの」
父親の部屋に入り、パメラとニキータの話をする。最初は機密情報をやすやすと外部のニキータに見せたことに渋い顔をしていたエルマンだが、だんだんと険しい顔つきになっていき、やがて無言になり考え込んでしまった。
「パパ?」
プリムが問いかけると、エルマンは深くため息をついた。
「パンドーラの手札はきっと――お前だよ、プリム」
「わ、私?」
プリムの声がかすれる。エルマンは額に手を当てると。ゆるく頭を振った。
「私も忙しさにかまけて国の動きに気づいておらんかった……それだけ強気に出られるのは、聖剣の勇者の仲間がこちらの手元にいるからだろう」
「なに……それ、私を、交渉を有利に進めるための材料として使うっていうこと?」
世間がプリムの名前を出すとき、それはただの大臣の令嬢という意味ではない。聖剣の勇者の仲間だ。それは世界を救った英雄ということだが、同時にタナトスという驚異を倒した圧倒的な力であるとも言える。
「そんなの……武力で脅しているのと一緒だわ!」
タスマニカはランディを放逐することで世界の支配者になるのではないかという他国の疑惑を牽制することができたはずだ。それはつまり、タスマニカとパンドーラは世界の支配者になる気はない、ということだと今まで考えていた。
「国も一枚岩ではない。タスマニカとパンドーラの中にも、世界の利権を手にしようとする者がいるんだろう。場合によっては武力で脅してでも」
「待ってパパ、じゃあ!」
プリムの悲鳴のような切り裂くような声がエルマンの言葉を遮り、部屋に響く。
「じゃあ、ランディが島に閉じ込められたのも!?」
「害を成すつもりがないということを示すためだと思っていたが……違うのかもしれない」
私がパンドーラの、ランディがタスマニカの手札なんだ。 プリムは血の気がひいていくのを感じた。
「世界に対し、害はないという姿勢を示そうという者と、手札としてランディくんを手元に置いておきたい者がいるのか、それともどちらにも対応できるようにしているのか。最初からその気だったのか、途中で方針が変わったのか……そこまではわからんが」
「そんな……!」
今は他国の優位に立ちたいという気持ちから、自分たちの手元に聖剣の勇者たちがいるということを交渉のカードとして使いたいだけなのかもしれない。 だが、一度走り出してしまえば欲は止まらないだろう。有利に交渉を進めるためにカードを使い、言うことをきかなければ脅し、場合によっては戦いに突入してしまうだろう。 今更ランディやプリムが表舞台に出るはずもないが、背後に自分たちがいるということは確実に相手側へのプレッシャーになるだろう。
戦いでたくさんのものを失ったのに、今度は私たちが戦いの引き金になるかもしれない。プリムの頭はめまぐるしく動く。だが、どうすれば、どうしたらいい、という言葉しか頭には出てこない。
「パメラももはや手札のひとつだな。パメラは帝国の四天王だったタナトスに操られた身だ。自国の民、しかも貴族の令嬢に国の者が傷をつけたともいえる。彼女が和平大使として出向くことが十分なプレッシャーになる」
エルマンの言葉にプリムは唇を噛んだ。しかし、パメラは行くだろう。自分が手札にされることを知って歯噛みするかもしれない。けれど、それ以上に彼女はディラックの名前を正義の元に刻みたいと思うはずだ。プリムにとってもそれは成し遂げてほしい事柄だ。
エルマンがすっと立ち上がる。
「私がパンドーラの国の中を探ろう。誰がお前たちを使って、この世界に再び戦いの波紋を広げようとしているのか。タスマニカはジェマ様に探ってもらうしかないだろうが……」
「私、どうしたらいい、パパ」
プリムが父親の腕をつかんだ。大きな瞳が揺れている。 エルマンが少し驚いた顔をしたあと、状況に似あわずおかしそうに笑った。
「おかしなことを言うなプリム。君が私に意見を請うなんて」
「パパ!」
思わずプリムは顔を赤くして、そんなこと言ってる場合、と怒鳴りつけた。エルマンはゆるんだ口元を隠したあと、顔をあげた。
そうしてきっぱりと言う。
「家出しなさい、プリム」
その顔はもう、笑ってはいなかった。
「いいか、我々はなるべく人目につくところで派手なケンカをするんだ。君は家を飛び出し、この国から逃げ出せ。私がプリムとは縁を切ったと吹聴する。パンドーラの動きに気付いていないふりをして、時間をかせぐんだ。その時間で首謀者を見つけ……」
「ランディを島から助け出す。そうすれば、とりあえず私たちが二国の手札となる事態は避けられる……!」
「その後のことは、首謀者の正体を見て考えるしかないだろう」
エルマンの言葉にプリムは頷くと、「すぐに支度をするわ」と拳を握りしめた。そうして本当に久しぶりにエルマンの顔を正面から見つめると、心から述べた。
「ありがとう、パパ」
エルマンはさっと頬を赤くし、口を尖らせてふんと鼻で笑う。
「私は、自分に火の粉がかかりたくないだけだぞ。お前のことなど知らぬ存ぜぬを通し、もう二度と娘は家には戻らんと言う。聖剣の勇者の仲間などという危険なカードを持っていたら、この国が良くない方向に進むばかりだと思うから、協力するのだ」
「……私、本当、自分が誰に似たのかよーくわかったわ」
父親の素直でない物言いに、プリムは噴き出すと、がばりと腕を父の首に回した。
「パパがディラックを魔女の森に送ったのが、私とディラックを引き離すためだなんて、自意識過剰の思い上がりだったわね。パパが考えているのはいつも私たちが暮らすこの国のこと。パパとママが出会い、私が生まれ育ったこのパンドーラのことだったのに」
親不孝な娘で、ごめんなさい。 そう呟いたプリムの頭を、幼子にするように父親の手が撫でる。
「何を言う。この国を……この世界を、救ってくれてありがとう、プリム」
ああ。ごめんね、ランディ。
プリムは心の中で呟いた。
私はもう、この世界を滅ぼせない。
獣のいななく声が聞こえて、ランディははっと顔をあげた。
忘れもしない、白い竜の鳴き声だ。翼の音もどんどん近づいてくる。アリスが何事かと外に出たのだろう、ドアを開く音がしてさらに音の量が増す。
ランディも慌てて外に飛び出すと、春の淡い月の光を遮り、影が陰った。アリスが長く伸びた髪を抑えながら、初めて見る獣に口を大きく開けていた。あまり表情を変えない彼女にとってもさすがに驚きが勝ったらしい。
「フラミー!?」
ランディは叫びながらも、まさかという思いを消せないでいた。
戦いの後、フラミーは再びマタンゴ王国へと預けられた。神獣とよく似た姿は人間の目に触れればフラミーにとって災いとなるかもしれないという危惧があったためである。風の太鼓はランディの手元にあるが、ランディもプリムも呼び出すことは一切しなくなっていた。
「どうして……」
呟きが漏れたときにはひらりとフラミーの背から人影が舞い降りていた。金色の髪の輝きが、月光を受けて翻る。
もう、誰が乗っているかなどわかっていた。
「ランディ!」
プリムが着地するとそのまま駆け出し、飛び込むようにランディの両肩をつかんだ。視界の端でアリスがうつむき、屋内へと戻っていくのが見えた。
「ランディ、急いで用意して。ここから逃げるのよ」
プリムは大きな瞳を見開いて、ランディへと訴えかける。
ランディは勢いにのまれてもつれそうになる舌を必死に動かした。
「プリム、家出したって聞いたけど……」
「それは偽装工作。あまり時間がないわ。宵闇に紛れてフラミーで飛んできたけれど、気づかれているかもしれない」
プリムが必死にランディの腕を揺さぶる。ランディはされるがまま、頭が前後に揺れる。
「一体、何が」
「このままじゃ、私たちふたりともパンドーラとタスマニカの外交の手段にされるだけよ! 領土の国や島にいるというだけで他の国への圧力にされる……! そんなのごめんだわ、だからトリュフォーを説得してフラミーに乗ってきたの! フラミー、ランディに会えるって言ったら喜んで……!」
そこまで言っているうちに、プリムは激昂していく自分に比べ、ランディの瞳の中に感情が見られないことに気付く。
彼が自分と同じように驚き、憤り、再会と出発に喜ぶことを期待していたプリムは途端に怯んだ。フラミーとプリムが突然やってきた衝撃から回復したランディの雰囲気がどんどん冷めていくのがわかってしまった。
――あたしは帰らない。ここでディラックといっしょに暮らすことにしたのさ!
興奮していたプリムの背筋に冷たいものが走る。
どうして今、帝国遺跡でパメラに向けられた冷たいまなざしを思い出すのだろう。
「……プリム」
ランディがそっと左腕を伸ばし、プリムの肩を押し戻した。
ランディは俯いたまま、何を言うべきか考えているようだった。
「僕は……行けない」
「どう……して? パンドーラもタスマニカも、完全な味方じゃないわ。私たちが疑われないようにと世界の情勢から離れて何もできないのをいいことに、それを逆手にとって自分たちが有利になるように仕向けてるのよ! 聖剣の勇者やマナの種族の名前が、そんな政治のゲームに使われていいはずないじゃない!」
プリムは再びランディの肩をつかむ。右腕がぷらぷらと揺れるのが滑稽だった。
「こんな世界なんてって私も思うわ。でも、パメラは前を向いているし、パパは私を逃がしてくれた! ねえランディ、私は世界を滅ぼせない。大事な人がまだいるから! 大事なものがたくさんあるから!」
プリムは必死に叫ぶ。
「一緒に行こう。ここから出ましょう。世界中を旅しましょう。きっと、世界を滅ぼすのが惜しくなるくらい、優しい人にも会える。世界を支配するのが馬鹿らしくなるくらい、美しいものも見つけられるわ。だから!」
ランディが顔を上げた。
だが、その瞳に相変わらず光は射していなかった。
どんなに言葉を尽くしても、海に水を撒いたように何も残らず、雪原に雪玉を投げたときのように跡もつかない。あまりの手ごたえのなさに、プリムは言葉を続けるのをやめてしまう。
どうして私は、パメラの気持ちに気付くことができなかったんだろう。
いつかの自分の後悔の声が聞こえる。なぜ今、とまた思う。
プリムの肌にざっと汗が浮く。
もしかして、私は、また同じことをしているんじゃないだろうか。
パメラを助けたいという自分の気持ちばかりで、パメラがどんな思いを抱えていたのか想像すらしなかった。
ああ、どうして気づかなかったんだろう!
国に利用されたくないのも、ランディを救いたいのも。
全部、私の気持ちだ――!
「プリム。僕は行けない」
ランディが首を振った。申し訳なさそうに、けれどきっぱりと。
まるで、旅の最初の頃、ガイアのへそに行く彼と、魔女の城に行くプリムが衝突したときのようだった。あのときはもういいわよ、と突っぱねたが、今はそうするわけにはいかない。
「……どうして?」
プリムは半ば呆然としながら、なんとか言った。ランディの様子は頑なで、気が変わる気配がない。
ランディが嘲るように微笑んだ。
「……こわいから」
「え?」
プリムは思わず聞き返していた。
いつの間にか空が白み出し、夜明けがやってくる。海風がふたりの髪を揺らした。世界の支配と破壊の話をした、あのときと同じように。
だが、もうランディはプリムへと手を伸ばさない。
「こわいんだ。ここから出ても、誰にも出会えないかもしれない。何も見つけられないかもしれない。やっぱり、何もかも支配したくなるかもしれない。全部壊したくなるかもしれない。僕がいることで、迷惑がかかることがこわい。僕がいなくても、何の影響もないこともこわい」
こわいんだ。
繰り返し言って、ランディがプリムの肩を押した。プリムはたたらを踏み、後ろへと下がる。
ああ、そうか――。
プリムはランディの震える声に、拳を握りしめた。
ランディがその気になれば、そもそも島に来る前に逃げ出すことなどできたはずだ。ジェマの手引きや、ルカの導きがあれば可能だ。いや、周りに頼らず彼ひとりで行動しても十分できたはずだ。
それでもランディはおとなしくここに来た。
ランディには待ってくれる人もいない。帰りたい場所もない。島の外に、優しいひとや、美しいものが待っていることを、信じることもできない。
ランディはとっくに、絶望してしまったのだ。
「ランディ」
プリムは彼を呼んだが、やはりまるで手応えがなかった。
ああ。
私とランディの間には、きっと強いつながりがあると思ってた。お互いにしかわからない、お互いしか共有できないものが。
それは確かにある。今だって感じられる。けれど、だから同じ気持ちだなんて、私の傲慢に過ぎない!
「僕は一緒に行けない。ごめん、プリム」
ランディが寂しそうに言った。
2017.10.12