光
いつかは彼女を傷つける日が来ることを、知っていたのに。
「ディラック!ディラック!」
あれ。プリムの声がする。
しかも、泣いてるみたいな声で叫んでいる。
珍しいな。プリムはこんな風に泣いたりしないのに。
プリムは気が強くて、いつも泣きそうになると我慢する。俺が「我慢するなよ」って言っても、まだ耐えようとして。
そして、耐えきれなくなって、ようやく一筋涙を流すんだ。
俺はそっと手を彼女の頬に近付けて、人差し指で涙を拭う。
ああ。プリムが泣いているなら、その涙を拭ってあげなくちゃ。
でも、どうしてだろう。腕が重たい。動かない。
ああ、そうだ。
「ディラック、返事して……!」
ディラックは、自分が一瞬意識を失っていたことに気付いた。
最初は暗かった視界が晴れてきて、プリムが目に涙をいっぱい溜めているのが見える。
――そうだ。自分は、身体を乗っ取ろうとしてきたタナトスを拒み……その正体を自分の生命力を持ってして暴いたのだった。
自分の命が尽きようとしていることが、ディラックには察せられた。もうあまり、時間がない。
ディラックは、息を整えると、最後の力を振り絞って、プリムの頬に手を伸ばした。
「プリム」
ああ。綺麗な顔が台無しだ。
泣くと次の日、目が腫れて大変だから、泣かない。そう言って意地を張ったこともあったのに。
泣くなよ。
俺が好きなのは、プリムの輝くような笑顔なのに。
笑ってよ。
ディラックは苦笑した。言いたいことが次から次から止め処なく出てきて、何から言えばいいかわからない。
「プリム……会えなくなってしまうけど……ごめんね」
結局、出てきたのはそんな言葉だった。
プリムの瞳が見開かれる。
ああ。
ディラックは心の中で嘆息した。
自分は知っていた。
昔から、自分には他の人とどこか違うことに気づいていた。タナトスは自分のことを闇の力を持つ者――と言っていたが。
いつか、こんな風に破滅を迎える日が来ることを、なんとなく知っていたのだ。
抗うようにパンドーラの騎士になり、力を身につけようとした。それでも不安は拭えなくて、常に背後から忍び寄ってくる破滅の予感に追い立てられていた。
そんな俺に、光を見せてくれたのは――プリムだった。
パンドーラの貴族の令嬢。
身分違いの恋なんてことはわかっていても関係なかった。
彼女の表情を、ひとつひとつの仕草を、いつも追っていた。
そうすると、自分もただの一人の男だと思うことができた。闇の気配など、振り払うことができた。
知っていたのに……いつか自分はいなくなることを。そしてプリムを傷つけることを。
けれど、手放せなかったのだ。どうしても。
ディラックの指が、プリムの涙に触れる。
これが、最後。もう、彼女の涙を拭うことはできない。
もう彼女のことを守れない。
誰か、誰か。彼女の側にいてあげてほしい。彼女が今日のことを思い出して泣いたら、すぐ側でその涙を拭ってあげてほしい。
誰か。
視線を巡らせたディラックの視界に、一人の少年が見えた。
水の神殿で会った、気弱そうな少年。聖剣の勇者、ランディだ。プリムと行動を共にし、帝国遺跡ではタナトスに操られたディラックに、本気で殴りかかってきた。
あのとき、彼の瞳にあった激しい炎を、ずっと忘れられなかった。
今、彼は、じっとディラックとプリムを見ていた。
痛ましそうな顔をしながらも、瞳にそれとは別の感情を浮かべて。
ディラックには、それが何なのかがすぐにわかった。
――ああ、そうか。君も、プリムが好きなんだ。
なら、大丈夫、かな。
ディラックは薄く微笑む。
「ランディくん、といったね。プリムのこと、頼むよ」
ランディが驚いた表情を浮かべる。
ディラックは腕に込めていた力を抜いた。
プリムの叫ぶような悲鳴が遠くなっていく。
ごめんね、プリム。大好きだよ。
傷つけていく俺のことを、忘れてしまってもかまわない。
ただ俺は――幸せだった。
本来だったら、俺の人生は闇に脅えて過ごすだけで終わったろう。
その中で、人を好きになることを、愛することを教えてくれた。
プリムがいたからだ。
ああ、伝えたいことがたくさんあるのに。もう、だめみたいだ。
「――好きだよ」
最後に呟いた言葉が、彼女に届いたのかはわからなかった。
2010.12.13