イゾルデ

 

 

 恋なんてしないと、そう思っていた。

 

 


 いつからだろうか。彼の名前を呼ぶことさえ緊張するようになったのは。

 しかもその緊張は悪いものではなく、どこか甘美なものさえ含んでいるから始末に負えない。

 「ランディさん、お茶です」

 そう言って私はそっとテーブルにカップを置く。

 彼が本から顔をあげ、眼鏡の弦を押し上げながら「ありがとう」と微笑む。

 そんな当たり前の仕草にですら、胸が高まって仕方ない。

 このときばかりは、あまり表情の変わらない自分の顔に感謝する。

 そう、私は恋をしている。

 目の前にいる、聖剣の勇者という肩書を持った青年に。

 

 

 私の父は名家の一粒種で、母は美しいながら貧しい家の娘だった。

 本当であれば出会うはずもなかった二人は偶然に出会い、激しく惹かれあう。よくある話だ。

 母は私を身ごもり、当然父の家はそれを許さなかった。そのときには父はそれなりの地位の家の娘と結婚が決まっていた。

 母は父の前から姿を消し、私を産んだ。だが父は母を忘れられず、密かに二人は逢瀬を繰り返していた。

 だが、父の妻は家が決めた結婚相手にも関わらず、本当に父のことを愛していたらしい。

 結果的に、父の妻は父と母の前に突然現れ、二人を殺して自分も自殺した。

 当時、共和国はやっと戦争が終わって皆が平和に安堵していたところだった。凄惨な事件に国中が顔をしかめたという。

 孤児院で育った私は物心ついたころ、自分の父と母の末路を聞かされた。

 だが、なぜ父の妻が自分の両親を殺さなければならなかったのか、理解できなかった。

 どうしてと問う私に、大人たちは困った顔をした。

 そして言った。

 「あなたも恋をすればわかるわ」

 


 孤児院を出た後、私はジェマ様という共和国の騎士の中でもトップにいる方のお屋敷で働かせてもらっていた。

 主人であるジェマ様はお忙しく、いつも世界中を飛び回っているのであまり会ったことはなかった。だが、とても人柄の良いかたで屋敷はとても雰囲気が良く、仕事はとてもやりやすかった。

 帝国に不穏な動きが出てきたという噂に国中に暗雲が立ち込めたようになり、ジェマ様とますます顔を合わせなくなったときでも、私の毎日は変わらなかった。

 他にいる古参のメイドと一緒に屋敷を掃除し、いつ主人が帰ってきてもいいように維持する。

 ときどきお城にジェマ様の使いで行ったり、街の市場にでかけたりもするが、ほぼ変わらない毎日を送っていく。それでいいと思っていた。

 私は父と母のようにならない。恋なんてものに身を溺れさせず、やるべきことをやって毎日を静かに過ごしていくのだ。

 そう思っていた。
 
 だが、私は知らなかった。

 恋は、落ちるものだということを。恋に落ちないと決めれば、落ちないでいられるものではないということを。 

 

 

 「アリス。君に今とは別の仕事を任せたいのだが」

 ジェマ様に呼ばれてそう言われた私は、自分が何か失敗してしまったのだろうかと顔を歪めた。

 世界を揺るがせた戦いが終わった後のことだ。

 ジェマ様は世界を救った聖剣の勇者を手助けしていたらしく、久しぶりの帰還だった。

 「ああ、違うんだよ。君が何か失敗をしたから首を切ろうとしてるわけではないんだ。むしろその逆だ」

 ジェマ様は慌てたように言った。

 「実は、聖剣の勇者が孤島にあるマナの神殿の管理を任されることになったんだ。君には彼の世話係を任せたい」

 ジェマ様は続けて、彼の立場は今とても微妙な位置にあることを語った。

 「本当は新たに人を雇おうと思ったのだが、勇者である彼を狙っている者が潜り込んでくるかもしれない。私が一番信用を置ける人物を世話係にしたいんだ」

 行ってくれるかい、と言われて私はうなずいた。

 勇者が年頃の男性と聞いて不安はあったが、主人にそこまで言われて引き下がれる者はいないだろう。

 そうして初めて会った男性は、想像していた人物とは全く違った。

 「はじめまして、アリスさん」

 そう笑った彼は少年とも言えるくらいの年齢で、柔和な表情をしていた。

 聖剣の勇者というから、もっと屈強な男性を想像していた。

 何もしていなにのにも関わらず、孤島に閉じ込められることを、もっと憤慨しているのかと思っていた。

 だが彼は、ただ静かに運命を受け止めて微笑んでいた。

 これが、聖剣の勇者?帝国の四天王を破り、要塞を落としたという?

 私は信じられず、目を瞬かせた。

 とりあえず握手をしようと右手を差し出すと、彼は左手を差し出してきた。

 「ごめん。右手が動かないんだ」

 彼は何でもないことのように言って、申し訳なさそうな顔をした。

 

 

 ランディ様は片腕が使えないとは思えないほど、器用に物事をこなした。

 出来る限りのことは自分でしてしまうので、何のために私がいるのかわからないくらいだ。

 朝、起きて身だしなみを整えて彼の部屋へ行く。たいてい彼は起き出していて、身支度も終わっている。

 「おはよう、アリス」

 「おはようございます」

 食事は二人で用意する。最初の頃、私が作ると言ったが、人に頼り切っていると何もできなくなりそうだから、とランディ様も手伝ってくれる。

 午前中は主に神殿の修復と掃除にあてられる。午後になると、ランディ様は自室で読書をしたり、手紙を書いたりしていた。

 「この島何もないから、書くことがないんだよね」

 そう言って苦笑いをする。

 手紙の宛先は、ジェマ様だったり、セルゲイという島にやってくる船の船長だったり、マタンゴ王国の王様や、故郷の村の村長と様々だ。

 一人だけ、女性の名前もあった。

 恋人なんですか、と思いきって尋ねると、ランディ様は慌てて否定した。

 その反応にどこかほっとした自分がいることに気付く。

 夜になると、島全体が闇に包まれて何もできなくなる。

 夕食を食べたあとは、ランディさまは神殿の祭壇のところにいることが多い。

 そんなときの彼は近寄りがたい雰囲気があって、声をかけられないことがあった。

 それでも彼は、私が名前を呼べば振り向いて微笑んでくれた。 

 毎日は穏やかに過ぎていく。
 
 特別な出来事はひとつも起こらない。

 ランディ様は、たまにじっと海を見ている。

 そのときの表情は様々で、とても愛しいものを見る眼差しのようでもあれば、とてつもない憎しみの籠った瞳をしていることもあった。ただぼんやりと海を眺めているときもあった。

 一体、何を見ているんですか。

 そう尋ねても、彼は教えてくれない。いつも微笑んでごまかしてしまう。

 聖剣を握っていた頃の話も、ほとんど口を閉ざしてしまう。

 彼と私の会話は、何もないこの島のことと、数少ない共通の知り合いのことだけだった。

 それでも、私の中でのランディ様への気持ちは、徐々に降り積もっていった。

 私はそれに気付きながらも、何も見ないふりをしていた。

 

 

 いつもと同じ朝だった。

 だが違ったのは、私がランディ様の部屋に行ったとき、ノックに応答がなかったことだ。

 不審に思いながらもドアは開いていたので中に入ると、珍しいことにランディ様はまだ起床していなかった。

 「ランディ様」

 私の静かな声に、応えはない。代わりに苦しそうな呻き声が聞こえた。

 「ランディ様!?」

 慌てて駆け寄ると、彼は汗をびっしょりかいてうなされていた。

 私は必死に名前を呼びながら、彼の肩を揺さぶった。

 苦しみ方が尋常ではなく、いくら呼びかけても眉間を寄せるだけで意識が戻らない。

 仕方なく、私は手を振り上げると、彼の頬を張った。

 「――っ!」

 ランディ様がはっと目を開く。荒い息遣いだけが部屋の中に響く。

 彼の瞳は私を見ているが、焦点が合っていないようにぼんやりとしている。

 彼の唇がゆっくりと動いた。誰かの名前を呼んだようだが、よく聞き取れなかった。もう一度私が彼の名前の呼ぶと、やっとしっかりした返事が返ってきた。

 「あ……アリス」

 「乱暴な真似をしてすみません。あまりにも苦しそうだったので」

 「……いや……こちらこそごめん。うなされていたみたいだ」

 常であれば優しく微笑んでくれるはずの彼の顔は強張ったまま動かない。

 私はしばらく待ったが、彼がこちらを見ないことに気付き、ベッドから離れた。

 「きっとお疲れなんです。今朝はもう少し休んでいてください」

 「……うん。ありがとう」

 ランディ様はようやくぎこちなく微笑んだ。

 私は部屋を出たあと、知らぬうちにため息をついていた。

 


 
 ある日、月に一度来ることになっているタスマニカからの船が、島に着岸した。

 私とランディ様は迎えに神殿の外に出てきていたが、セルゲイさんよりも先に船から転がり落ちるように出てきた人影に、ランディ様の肩が強張ったのが見て取れた。

 金色の髪を揺らしながら一心不乱にこちらに向かって走ってくる女性は、大声でランディ様の名前を呼んだ。

 「……プリム、なんで」

 ランディ様が困惑したように呟く。

 その名前はランディ様が手紙を書いていた唯一の女性のものではなかった。では、彼女は何者なのだろうか。

 プリムという女性はあっという間にこちらまでやってくると、立ちつくしていたランディ様に飛びかかるように抱きついた。

 「ランディ!あんたねえっ!」

 そして茫然としている私たち二人にかまわず、プリムさんは大声をあげた。

 「勝手にいなくなって、しかもジェマやクリスには手紙を送ってるのに私には送ってこないってどういうことよ!」

 「プリム、なんで、こんなところに来ちゃ……」

 「あんたと私につながりがあると思われないように、とか思ってるんでしょうけどね!」

 プリムさんはそこで言葉をきると、ランディ様の頬に手をあてて言った。

 「無関係になんか、なれるわけ、ないじゃない」

 彼女は自分の頭を、彼の胸にすりよせた。

 ランディ様は彼女の名前を呼ぶと、動く左手で彼女の背中に手を回す。

 私は展開の早さについていけず、ただ、立ちつくすことしかできなかった。

 だが、最初からわかっていたのだ。

 ランディ様が、私には図り知れないほどの何かを抱えていることを。それを共有することなど決してできないことを。

 そして、今の一瞬でわかってしまった。

 この二人には切り離せないつながりがあることを。

 私は結局、舞台の上にいても、脇役でしかないことを。
 
  

 

 恋なんてしないと、そう思っていたのに。

 私は既に、どうしようなく恋をしていることを、このとき初めて認めた。

 

 

 「アリスの淹れるお茶は本当においしいよ」

 「ありがとうございます」

 私はにっこりと笑って言葉を返す。

 私にできることなど幾許もない。ただの世話係として、彼の傍にいるだけだ。

 それでも彼のことが好きだ。

 父のことも、母のことも、そして父を愛していた女のことも、理解できないと思っていた。

 あなたも恋をすればわかると、訳知り顔で言った大人たちを疑っていた。

 だが、今ならわかる。

 この人が関わると平静ではいられなくなる。

 今は穏やかな気持ちも、いつか火がつけば炎に変わる。そのことが、嫌と言うほどわかる。

 ただ、今しばらくは仮初のこの穏やかな空気の中で、あなたの笑顔だけを見つめていよう。

 「何でもいってくださいね。私、ランディ様のためにいるんですから」

 「うん、ありがとう、アリス」

 

 

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2010.6.30

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