ディラックは、遅くにできた子だった。
赤子のときから聞き分けがよく、困らされた記憶はほとんどなかった。成長するにつれてさらに、本当に出来のいい子だとわかっていった。誰にでも分け隔てなく優しい。勉強もできて、運動神経も良く、親の言うこともよくきく。
周囲の人から「鳶が鷹を産んだ」と言われることも多々あった。私も夫もそれに怒るでもなく、本当にねえ、なんて笑い返した。ふたりともおおらかな気質であることも大きいが、その通りだと思っていたからだ。
ディラックにある優秀な要素が自分たちには見当たらないことは、ふたりともわかっていた。夫はだからといって、私の不貞を疑うような人ではない。ふたりして純粋に、どこか息子のことを天からの授かりもののように思っていた。
特別この世界にとって大事な子どもを、任されたのかもしれない。そんな風に。
だからか、ディラックが故郷の村を出て、パンドーラ王国の騎士になると決めたときも、ああやっぱりなあ、という気持ちだった。彼にはきっと、運命があるのだ。それはきっと、自分たち夫婦にはどうしてやることもできないものだ。彼がこの手を離れていくのは仕方のないことだとそう、思っていた。
ディラックの恋人だというプリムさんと聖剣の勇者のランディさんがやってきたのは、世界の終末が退けられ、神秘的な雪が降り続いていた頃のことだ。ディラックの最期を見届けた者で生き残ったのは自分たちふたりだけだから、と言って村を訪ねて来て、息子の最期のときのことを語った。
「彼を……助けられなくて、すみませんでした」
ふたりが頭を下げた。私たち夫婦は言葉少なに「その状況では仕方ないことだった」と告げて帰ってもらった。
どう受け止めていいのか、わからなかったのだ。
葬儀はパンドーラ王国をあげての国葬となった。王様が死んでもこうはいくまいというほど大がかりなものだった。
義務的ではない涙を浮かべている者たちもたくさんいて、ああ、息子はこんなにも多くの人に慕われていたのか、と感慨深いものはあった。しかし、私も夫もなんだかずっとぼうっとしていた。
どこかでわかっていた気がするのだ。
運命がいつか、息子を連れて行ってしまうことを。
だからあんまり悲しくないのかもしれない。実際、涙も出なかった。自分たちは薄情だろうか、と思いつつもどうしようもできない。
ただ漫然と日々を過ごしていると、ある日プリムさんがひとりで訪ねてきた。夫は農作業に出ていて、私ひとりだった。
「お母様たちがどうしているか、気になって」
言った後に、彼女がはっとしたように頬を赤く染めた。
「ごめんなさい。お母様だなんて、勝手に」
恥ずかしそうに言った彼女に、私は目を見開く。
もう恋人は、ディラックはいないのに、私のことを母と呼ぶことに照れるなんて、彼女にとってディラックのことは終わったことではないのだ。
どうぞ入って、と言うと彼女は興味深そうに家を見回した。
「ディラックから聞いていたんです。玄関から家全体が見渡せて、安心するんだって。パンドーラの家は、二階があったり、部屋がいくつもあって、ちょっと落ち着かないって」
そう言って、顔を綻ばす。
お茶を出し、おしゃべりに花を咲かす。プリムさんは次々と語った。彼と交わした他愛もない会話。出会いや、どんなところに惹かれたか。彼女の語るディラックは、ちっとも色褪せていなかった。お返しにとばかりに、私も幼い頃の息子の話をした。
「鳶が鷹を産んだなんて、よく言われたわ。ディラックは優秀な子だったから、仕方ないわよね」
カップの中のお茶がなくなり、話がひと段落したところで、私はぽつりとそう言っていた。プリムさんはじっとこちらを見つめている。
「そういう子だったからかしら。いつか、私たちの手を離れていってしまうってわかってた。……どこかで、運命だった気もしているの」
たぶん、夫も同じことを思っているが、お互い確認したことはなかった。人に言うのは、口に出すのは、初めてだった。静かな沈黙が落ちた。
「……悔しいです」
凛とした声がした。
目の前の少女が発した声だとわかるまでに、数秒かかった。射抜くように強い光を宿した目が、こちらを見ていた。
「彼には闇の力があるって、タナトスが言っていました。確かに運命だったのかもしれません。でも私は、運命を、ぶち壊してやりたかった」
悔しいです、もう一度そう言って、プリムさんは拳を握りしめた。
頭をがん、と殴られたような衝撃だった。
そうだ、彼女は追いかけたのだ。誰に頼まれたわけでも、ディラックに助けてくれと言われたわけでもないのに、自分の意思で。絶対にディラックを助けるのだと。
似ていない、と言われて受け入れていた。そういうものだ、などと思っていた。息子は特別だと、自分たちとは違うと、そう線を引いて。
本当に、そうだっただろうか?
プリムさんがあっと思いついたように言った。
「それに、ディラック言ってましたよ! ディラックがあんまりいつもにこにこしているから、怒ることあるの、って聞いたときに。あんまりないねって答えて。穏やかなところは母さんに似たんだ、口に出さないところは父さんに似たんだって」
ふいに胸がいっぱいになった。
鳶が鷹を産んだ、と言われるたびに、本当にねえ、と返す私たちの傍らで、にこにこしていた息子を思い出す。彼は本当は何を思っていたのだろう。
言ってやればよかった。いいや、そっくりなんだ、と。正真正銘、私たちの息子なんだと。
そんなことくらいで運命を変えることは到底できなくても、蝶の羽ばたきくらいには、なったのかもしれないのに。
溢れ出した涙を抑えることはできなかった。プリムさんが立ち上がり、私の傍らに回り込んだ。私の涙が止まるまでずっと、まるで娘のように、背中をさすってくれていた。
初出「ディラックアンソロジー」